本日は【勇気のでる言葉たち✕やさしくなれる言葉たち】という本を超約していきたいと思います。
この本はさっと読めますがよくよく考えさせられますね!
そしてこの類いの本を超約すると文章自体も詩みたいになってしまいました
*おこがましいかもしれませんが💧
自分で決めて行動する
問われているのはやるかやらないかそれだけ
*何に問いを立てるかもその人次第
何もせず文句言っていることはかっこ悪いし、自分が惨めになる
文句を言っても始まらない!
何が正しいのかなんてわからん
だからわからんものはわからんでいいと思うんです
*わからないものに無理に理屈をつけてやらない理由を考えて何もしないでいて自体が悪化した時あの時こうしていればなんて後悔するのも悲しいですよね
半沢直樹の中野渡頭取も最終回で
「物事の是非はその時にはわからない。長い年月がたった後にわかること」
繰り返しになりますが何が正しいか、正解かなんてわからない
自分の中で正解と呼べるものが他者から見て正解とも限らないことだって多いわけですし *正義感や常識といった概念と似ているのかもしれませんね・・・
だったら自分がどうしたいかを基準に持って行動を起こすべき
人間の後悔は自分がやりたかったけどできなかった事が大半を占めるそうです
間違った選択を取ってしまったとぼやいている方、それでも動いたことで納得感は高いはず
だって何もしなかったら正解も不正解も出ないから
問いがあって書き込んだ結果○だった、×だったとわかるけど、書き込まなかったら何もわからずじまいですよね
幸不幸は自分が決めること
だからとにかく動きましょう!
いずれくる終わりの時に「ああしておけば」という後悔を少しでも減らしていくために
傍観者ではなく行動する者に
行動しないことが偽善
やらない善よりやる偽善
色んな名言もネットを見てるとでてきます
人は一人では生きていけません
誰かが助けを求めていて自分が力になれるのであれば、自分に余裕があるのであれば手を差し伸べられる人間に私もなっていきたいです
昔読んだ社会心理学の本であったアメリカで行った実験で地下鉄でうずくまっている人にどれほどの人が声を掛けるのかを計測したものがあったそうです
結果はたしか声を掛けた人は1割にも満たなかったそうです
研究者は理由として以下の者を挙げています
・他の誰かが助けてくれるだろう
・大勢の傍観者のいる中で自分が声を掛けたら目立ってしまう、浮いたぞんざいになってしまう
この分を読んでから私自身は自分にもそういう固定観念があるという事を知り、それからは危なそうな人(といってもだいだい泥酔した酔っ払いですが😢)に声を掛けるようになりました。
そういった行動の積み重ねで知識をつけることの大切さを改めて再認識し、また固定観念を打ち破ることができた自身の自信に繋げることができました。
ただ人に手を差し伸べられる人間に必要なのは気持ちの余裕と余力だと思っています。
*自分自身で精一杯の人に誰かの力になることはできませんよね・・・
だからできるだけいかなる時も気持ちの余裕を持てるよう、そして余力を持てるように日々精進していきたいと思います😆
ここまで読んで頂きありがとうございます!